程なく千代は私の枕がみに來て、そしてぶる/″\と打慄ふ聲で、 「兄(あん)さん、兄(あん)さん!」 と二聲續けた。そして終(つひ)にその手を私の布團にかけたので、同じく私も滿身に火のやうな戰慄を感じた時、 「千代坊、何爲(し)てゐるのけえ、お前は!」 とあまり騷ぎもせぬはつきりした聲で、お米が突然云ひかけた。 「アラ!」 と消え入るやうに驚き周章(うろた)へて小さな鋭い聲で叫んだが、直ぐまた調子を變へて、落着かせて、 「何も何も、……灯を點けて……一寸便所(はばかり)にゆき度いのだから……マツチは何處け。」 と、漸次判然と云ひ來つて、そして更めて起き上つてマツチを探し始めた。お米はもう何も言はぬ。私は依然睡入つた風を裝うてゐたのであつたが、動悸は浪のやうで、冷い汗が全身を浸して居る。やがて千代は便所に行つて來た。そして姉に布團を何とやら云ひ乍ら、又灯を消して枕に着いた。 それから暫くはまた私も睡入られなかつたが、疲勞の極でか、そのうちにおど/\と不覺の境に入つて了つた。 次いで眼を覺されたのが東明時(しののめどき)、頓狂な母の聲に呼び起されて見て、私は殆ど眞青になつた。千代はその時既にその床の中に居なかつた。 書置の何のといふものもなく、逃げたのか、それとも何處ぞで死んでゐるのか、それすら解らぬ。あの娘のことだ、とても死にはせぬ、若し死ぬにしたら人の眼前(めさき)に死屍(しがい)をつきつけてからでなくては死なぬ、どうしても逃げ出したに相違ない、逃げたとすれば某港の方向だ、女の足ではまだ遠くは行かぬ、それ誰々に追懸けて貰へ、と母は既に半狂亂の態である。